歴史

■河北春秋: 「太平洋戦争・最後の空襲・B29による爆撃」・・・。■

平成24年 8月 6日:
■河北春秋: 「太平洋戦争・最後の空襲B29による爆撃・・・。■


 河北春秋】・2012年日(日曜日)より引用。

● 『 秋田市内を小さな川が流れる。草生津川。「くそうづがわ」と読む。古い時代の石油の呼称、臭水(くそうず)に由来する。
一帯には八橋油田があり、かつて国内最大規模を誇った時期もある

太平洋戦争で米軍は、この油田の近くにある土崎地区を空襲した。製油所があったからだといわれる。悲惨でない空襲などないが、とりわけ土崎の場合はその日にちが痛恨の思いを一層深くさせる。

 B29 による爆撃が始まったのは1945年 深夜。翌日未明まで続いた。
落とされた爆弾は千発。
数時間後、終戦の放送が流れる。
最後の空襲と呼ばれるゆえんである

死者は300人とも400人ともいわれる。今に至るまで正確には分かっていない。
6キロほど離れた追分地区では、防空壕(ごう)の中にいても身の毛がよだつような明るさの光が差し込んできたという。


 悲劇を忘れまいと市民団体が毎年夏、空襲展を開いている。
焼けた製油所の写真や爆弾の一部、当時の証言を基にした絵などを展示。
手作りだからこそ、訴えかけてくる悲惨がある

土崎地区には爆弾の破片を受けて首が飛んだという地蔵がある。
先日訪ねてみた。墓地の一角。静かにたたずんでいた。人々の身代わりになったとも伝えられる。
 年前が目の前にあった。 』






● 河北新報社の「河北春秋」に、
思いもよらず、
出身地・秋田市土崎の土崎空襲
」の記事が載っていた。

数年前まで、住んでいたとき、
秋田市土崎は、
『最後の空襲』の地ということで、
この終戦の時期ばかりでなく、
空襲の記憶の伝承は、
ことあるごとに行われてきた。

【参考】:「日本本土空襲 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2



そういえば、
 書店業のとき、

『戦争から平和を考えるフェア』 と銘打って、

コーナーを設けたことも、
思い出として残っています
(ちなみに、このときも、「 NHK秋田」にて放送されました。)


さて、
記事中に、
「落とされた爆弾は千発」と、
書かれていますが、
製油所周辺の土地整備の際、
爆弾の不発弾が見つかり、

自衛隊の「爆弾処理班」による
爆弾の不発弾の処理が、
数年に度ぐらいは、
行われていました。

悲惨でない戦争はありません。
戦争のない社会を切に望みます・・・

※ ちなみに、 僕は戦争を知らない世代です・・・。


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■「本拠地論争、本丸へ 米沢市教委、舘山城を今月から現地調査」・・・。■

平成24年 5月 7日:
■「本拠地論争、本丸へ 米沢市教委、舘山城を今月から現地調査」・・・。



【記事】
● 『 本拠地論争、本丸へ 米沢市教委、舘山城を今月から現地調査
 』 
                                    :(2012/05/06  【河北新報社】 配信)
 
 仙台藩祖 伊達政宗(1567~1636年)が米沢支配時代に本拠とした可能性のある舘山城について、米沢市教委は今月中旬から初めて本丸部分を含めたエリアの現地調査をする。現在の上杉神社の場所にあった平城の米沢城との「本拠地論争」を終結に導く新事実の発見が期待されている。

 市教委は2001年、舘山城北側から家臣団のものと推測される武家屋敷跡を発見した。これを受けて10年、舘山城一帯約28万平方メートルを対象に現地調査を開始。昨年、二の丸部分に当たる本丸東側の平地から、庭園や井戸などを有した屋敷跡を見つけた。伊達家の時代に城主級の武将が使ったとみられる。
 今回は主に
(1)東側平地で昨年発見された大きな丸柱周辺にあると推定される大手門遺構の確認
(2)東側平地につながる通路の特定など本丸の調査
(3)北西部の川岸にある石垣を含めた未確定の敷地範囲認定-を進める。
 舘山城は、政宗の祖父晴宗が1548年に西山城(福島県桑折町)から米沢に拠点を移した際の主要な城だとされているが、不明な点が多かった。
文献では
(1)政宗の父輝宗が隠居先に使った
(2)政宗が整備を進めていたが1591年に豊臣秀吉の命令で岩出山城(大崎市岩出山)に移る際に取り壊した-などの事実しか裏付けられていない。
 市教委は、二つの川に挟まれ、城下を一望できる丘陵に城が立地するという仙台城との酷似点に着眼。二の丸などの居館を周辺に配する構造は岩出山城とも共通しており、「今回、舘山城が仙台城の原形になったことを裏付けたい」(文化課)と考えている。
 2014年度まで現地調査を進め、15年度の国の史跡指定を目指す。将来的には一帯を伊達家の歴史を伝える公園として整備することも視野に入れている。
 安部三十郎市長は「調査を受け、上杉の前には伊達の歴史があった場所として米沢が広く認識されていくといい」と期待している。





 平成
24年4月28日大崎市岩出山・「旧有備館及び庭園」の復旧工事現場のパネルを パチリ。)


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■華道家元池坊が初公開:「伊達政宗、池坊専好へ依頼状・初公開」・・・。■

平成24年 2月27日:
■華道家元池坊が初公開:「
伊達政宗、池坊専好へ依頼状・初公開・・・。■


● 『
政宗 専好へ依頼状 中京、華道家元池坊が初公開。』 
       :(2012/02/25 22:58 【京都新聞】配信)

「 
華道家元池坊(京都市中京区)は25日、仙台藩主伊達政宗が江戸時代初期の家元・池坊専好(二代)にあてた消息を中京区の六角堂で初公開した。無沙汰をわび、来客があるので花を立ててほしいという内容で、両者の交流がしのばれる。
 11月まで展開する「いけばな池坊年祭」の一環で、文献(禅僧の日記)に初めて池坊のいけばなが記された日が1462年2月25日だったことにちなみ、この日公開した。
 消息には「明後廿日之晩、客御坐候、御出、一瓶御立候而」とあり、五月十八日の日付と政宗の署名などが記されている。花押の形から政宗晩年とみられ、1634、35年ごろ江戸屋敷に招いたと推察される。当時、京では後水尾天皇が花会を盛んに開いていたほか、諸大名の依頼も多く、専好が活躍していたという
 」



 書状が書かれたのは 江戸時代初期。
 伊達家と 池坊の親交の深さが感じ取れる。

また、 御屋形様(
伊達政宗公)は、
 筆まめ」だったということをうかがわせるニュースですね。

 筆まめ」だったのは、
もしかして、御屋形様は、
 書状が、 現代に日の目を見ることを予期していたのでしょうか・・・。


でもきっと、
現代の 歴女ブームの到来や、
ましてや、
 むすび丸のキャラクターや、
更に、ましてや、
『クリアファイル、メモ帳(一筆箋)』   頂き物(笑))
に登場 させられるとは、
予期していなかったことでしょう・・・(笑)。


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